phase shiftと量子力学の散乱の計算について
はじめに
量子力学で散乱理論をやった時に、
- 式は追えたけど、何が起こっているかがわからなかった。
- Born近似を用いた計算、低エネルギー極限、高エネルギー極限の場合以外の例を知らず、実際の現象に対するイメージがわからなかった。
- 特にphase shiftの意味がわからなかった。
などと納得できない部分が多かったが、計算機を用いた散乱理論の計算と可視化をすることで、散乱理論の使い方がある程度はっきりしてきたので
- 一般のポテンシャルに対して散乱断面積を計算する方法
- phase shiftを用いた散乱断面積の式の有用性
についてまとめる。
なお、この記事における式や計算方法はThijssen著 Computational Physics第2章の内容を参考にしています。 また、途中式や主張が間違っている/不正確という点があれば教えていただけるとありがたいです。
仮定と用いる公式
細かい公式の導出は
- Thijssen著 Computational Physics 2.3節
- J.J. Sakurai著 Modern Quantum Mechanics
などの教科書を参照して下さい。ここでは、大まかなストーリーと計算物理的に重要な式の列挙にとどめます。
3次元の球対称ポテンシャルによって質量の粒子が散乱される状況を考える。
このとき、入射方向周りの回転対称性より、波動関数は
と表すことができる。Schroedinger方程式
に代入すると、のみたす方程式は
と計算できる。で、はともに0に収束するので、はの極限で正弦曲線へ漸近することがわかる。この漸近形をの位相を用いて次のphase shift が
と定義される。
この時、微分散乱断面積と全散乱断面積はphase shiftを用いて
と表されることが知られている。
計算方法
が原点で特異的な振る舞いをしないことを要請すると、 方程式
は定数倍を除いて数値的に解くことができる。 *1
ここで、が十分小さくなる領域まで微分方程式の解を積分し、漸近形
を用いるとphase shiftが計算できる。*2
具体的な問題設定
ここでは、Thijssen著 Computational Physics2章に載っていた例である、Lennard-Jonesポテンシャルを仮定したKr原子によるH原子の散乱を考える。
where
meV
m
計算結果
まず、「遠心力の効果」を取り入れた有効ポテンシャル
を異なるに対してプロットすると、次の図のようになる。これを見るとわかる通り、が大きくなると、遠心力の効果がポテンシャルの効果よりも強くなり、相対的にポテンシャルの効果が弱まると考えられる。
また、に対して動径方向の波動関数と(の定数倍)をプロットしたものを以下の図に示した。
これより、が大きくなると、動径方向の波動関数の立ち上がりが遅くなることがわかる。これは、であることや、が大きくなると原点付近の有効ポテンシャルが大きくなり、波動関数が大きい値を持つことができないことと関係している。したがって、が大きい時、波動関数はでほぼ0なので、相互作用ポテンシャルの形状に依存しなくなる。
以上の議論より、で[\delta_l\to 0]が成立することが定性的に確かめられた。
最も手計算でよく用いられるBorn近似は、実質的には摂動論なので、番目の項は程度にと考えられるなる。よって、Born近似は入射粒子の運動エネルギーに比べて相互作用が強い場合に収束が遅くなる、もしくは発散する。それに対して、phase shiftを用いた展開の場合は、が遠心力ポテンシャルに対する相互作用に対する相互作用ポテンシャルの大きさに対応すると考えると、に関する展開項はが大きくなると0に収束する。よって、phase shiftを用いた展開は通常の摂動論とは全く別のアイデアに基づいており、*3収束性という点から数値計算に適した非常に有用な式であると言える。
実際入射粒子のエネルギーが1.0 meVの時のとの関係を調べたところ、以下のように、で[\delta_l\to 0]が確かめられた。
>||
l = 0, delta = 0.341114
l = 1, delta = 1.55413
l = 2, delta = -0.748415
l = 3, delta = -0.303176
l = 4, delta = -0.280574
l = 5, delta = 0.367082
l = 6, delta = 0.0883402
l = 7, delta = 0.0386536
l = 8, delta = 0.0197896
l = 9, delta = 0.011086
l = 10, delta = 0.00661219
l = 11, delta = 0.00414006
l = 12, delta = 0.00270405
l = 13, delta = 0.00181514
l = 14, delta = 0.00124932
||<
また、以上で計算したphase shiftを用いて全散乱断面積を入射エネルギーの関数としてプロットしたところ下図のようになった。明らかに低次の近似では計算できなさそうな、非自明なピークが見えていることがわかる。
まとめ
- phase shiftから散乱断面積を求める式は、計算が簡単であること、収束性がポテンシャルの強さに大きく依存しない、ということから数値計算において非常に有用。
- phase shiftは動径方向の波動関数のみたす微分方程式を数値的に積分することで計算できる。
*1:
一般に、既知の関数に対して、微分方程式
は、Numerov法という数値積分法によって刻み幅に対しての精度で積分できる。Numerov法については
Landau, Paez, Bordeianu著 Computational Physics: Problem Solving with Python
などを参照してください。
*2:
の漸近形を考えれば、この式の右辺がphase shiftの定義と一致することがわかります。ただし、phase shiftを定義した漸近形は
が十分0に近い領域で成立するので、が大きい時のphase shiftを見積もるのに不向きである。それに対して、ここで用いた漸近形はの領域で成立するので、に寄らずに正しいphase shiftを計算できる。
*3:Born近似がポテンシャルに対する摂動次数に対する展開であるのに対し、phase shiftは「球対称からのずれ」についての展開であるとも言える。